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拝啓 親愛なる母上さま

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母さんの12回目の命日。

もう数年、命日の日に

お墓に手を合わせにはいっていない。

 

命日は私自身が自然に返って自然と対話する。

それが私なりの供養。

 

 

「今ここ」を感じる

仕事もそれ以外の活動もパートナーのことも

一旦全部自分の外に置く。

自分を空っぽの状態にすると

母さんとのどんな思い出を感じたいのか

母さんが息を引き取る瞬間を思い出して息が詰まるのか

死後にしまい込んだ喪失感を思い出して涙が出てくるのか

母さんからのメッセージはあるのか

そもそも自分は母さんのことを思い出したいのか

 

雑踏の中にいるとそれが感じられない。

自然の中にいて日々の生活を全部置いてきた方が、

家族でお墓で手を合わせるより、

よっぽど自分と母さんと時間を過ごせる。

 

要は自分のためなんだ。

 

 

毎年自分の想いを綴る

母さんが教えてくれたこと-自分のこと大切にしてますか?- - いつだってシンプル。

(昨年の同じ日に書いたブログ。ここに6年前から毎年4月24日に書いた記事も全部載ってた)

 

1年に一回同じ日に書く文章を見ると

自分の成長がわかる。

自分自身が成長したなって感じる場面って

日々の生活でそう多くはないけれど

母さんが亡くなった今もなお、親としての務めを果たしてくれているんだと思ってる。

今年書く内容は、母さんはちょっぴり残念がるかもしれない、それとも成長と捉えてくれるかしら。

 

 

はてさて今年は、これを読んでいる人に届けよう!というものがない。

 

過去のブログを見ていると、

あんなにみんなにがん検診受けて!自分を大切にして!と言ってた自分がどこへ行ったのやら。

人に対して無関心になってしまったのかなぁ

と思う傍ら、

「自分自身を生きる」ができてきたのかもしれない。

 

 

承認欲求が高いことを自覚した

 

「心から人の役に立ちたい」

ということと

「誰かに認めてもらいたい」

紙一重だと思う。

「人の役に立ちたい」の裏側にある真理。

それはこの言葉だけではわからない。

中には自分のことは二の次で「人の役に立ちたい」人もいる。ほんとすごいなと思う。

でも自分はなれないし、ならない。

正しく書くと、「もう」その自分には戻らない。

 

 

私は今まで

表面上は「人に役に立ちたい」といいつつ、内面では「誰かに認めてもらいたい」がめちゃくちゃ強い人間だった。

 

母さんが圧倒的give人間だった気がするし

それを小さい頃から見ていたし、

私自身昔っから世話好きだったから

「人の役に立ちたい」は事実だったのだろう。

 

 

自分が承認欲求が高いことにはだいぶ前から気づいていた。

アンチから攻撃をくらったり、人から直接言われたり、自分の言動を思い返したりして。でも困らなかったからそのまま過ごしていた。だけどこの数ヶ月で自分にとって困ったことが起きた。

 

「人の役に立ちたい」って口では言っているけれど、本当は「誰かに認めてもらいたい」から人に対して行動しているじゃないか。

人前で良いこと言って、本心ではないじゃないか。

 

承認欲求を自覚したが故に、自分の思いと言動の乖離に息苦しさを感じるようになった。

 

そこから「〜のために」と言うことがしんどくなった。その言葉を使うのをやめた。

 

それを境にブログも書かなくなった。

「自分のために書いている」と言っておきながら、世に発信し、「読んでもらう人のため」に

言葉を選んでいた自分がいたから。

 

きっとそれを、頭で分けて考えて

「これは人を集めるための1つの戦略だから!」

「自分が生きるためだから!」

とそれができる人はたくさんいる。

でも私は言えなくなった。一時的に。

「誰かのために」「誰かの役に立ってる」っていうのがカッコよく思っていた自分だけど、それを盾にして自分の弱さを隠していることができなくなった。

そのうち頭で切り替えられるようになったら

「自分のため」に言うようになるかもしれないけどね。

 

自分が幸せになるために動いた結果

相手が幸せになればそれでいい。

 

私は私のために動くことをベースにする。

自分の人生だから。

変な強がりやいい人はおしまいにする。

 

今の私はここにいる。

 

ただ、今までお世話になった人へのお返しはしたい。

それは実行すれば自分が満たされるし、お返しは自分がやりたいこととリンクするから、それで良い。

だから実際は行動は変わらないのだ。実は自分の思考の変換だけだったりもする。でもそれ1つで心は豊かになる。

 

今の自分の位置はわかったけど、もう一つ知りたい大事なことがある。

「人の役に立ちたい」自分は小さい頃からいたとして、「誰かに認められたい」自分は一体いつからいたのか?

今はまだ思い出せない。ここはまた、ゆっくりゆっくり自分と向き合って、答えに近しいものを見つけていくとする。

 

 

 

承認欲求は人間ならあるもの

現代に生きる思春期〜成人期の人間は

生きる根源(衣食住)の欲求が満たされているが故に

「自分の存在価値」を欲求とする時代らしい。

そんな話を聞いたら、誰かに認められたい、自分の存在意義を見出したいと思うのは、きっと私だけではないのだと思う。

 

「人に認められたい」は悪ではない。

人間は欲の塊であるし、「承認欲求」は存在するとマズローさんが言っている。

それをどう捉えるかは個人の自由。

だから人に押し付けるものでもない。

 

ただ、私は自分を生きたらそんな答えに行き着いた。自分に素直に生きたい。それだけ。

 

そんな成長を

親愛なる母さんに、末娘の成長記録として捧げる。

 

母さん、産んでくれてありがとう。

ちゃーんと週末みんなでお墓行くからね。

27歳の私もよろしくぅ!!

 

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田中めぐみ